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@ 赤ちゃん誕生
A 母子寮の生活
B 自分の足で歩く
C ままごとの生活
D ふたりぼっち
E いじめと登校拒否
F 新たなる挑戦
G 再会への道程
H 病院にて
I アルコール漬け
J ありがとう…
K 終わりのない闇
L ともだち
M 編集後記
◆◇◆
その後…わたし
◇◆◇
♣ 足跡 bbs
♣ 良太UTop
♣ 慢性ショックhome

( no.19 ) ふたりぼっち
私と良太は横浜に舞い戻った。そのため入学したばかりの学校も変わりました。
(繰り返される人生…私の子どもの頃の人生となぜか同じ道を歩んでいる??)
彼と別れてからの良太は、身体中の力が抜けたように元気を失い、良太の顔からは笑顔も消
えた。そして、私との会話も殆どない。私は、そんな良太に、ただ“ごめんね、良太” と、声をか
けるのが精一杯でした。
良太を見つめていると、自分を攻めずにはいられなかった。
“私はいったい何をしているのだろう。良太に哀しみばかり与えて、どうしていつもこうなってし
まうのだろう、なんで私という親は自分勝手なんだろう。こんなにも良太の心を傷つけて…そ
れでも親か。これから先、私はどうすればいいのだろう。良太ごめんね、情けない親で…”
と、呟いていた。
1週間が過ぎると、やっと良太の顔に笑顔が戻った。その笑顔に私はホッとした。
(実は良太の心の傷はまだ癒されてはいなかった…気づかないのは親)

眞と別れてからの旅行先?は、茨城の実家のみになった。
再び実家を訪ねるようになったのは、“母子家庭で親なし”という最悪の条件? の中で生きて
きて、養父母たちの大切さを知りました。また長生きをしてもらいたい、そんな思いを抱いて実
家に足を運ぶようになった。

良太と2人で車に乗り込むと、片道4時間という長い旅の始まりです。
ところが、この空間は私たち親子にとって、思う存分に会話を楽しめる貴重な時間となってい
たのです。私は良太に、 「ねっ、何か話をして。」と、頼むと、学校の出来事をおもしろおかしく
話してくれます。車の中で大笑いしながら茨城に着いていました。
そんな道程が数年続いていましたが、小学5年の時のことです。
いつものように良太にお願いをすると、「ないんだよなぁ、最近学校へ行っていないからなぁ」
とあっさり言われてしまい、私は思わず吹き出しそうになった。
実は、この時期の良太は、学校へ行ったり行かなかったりを繰り返していたのです。つまり、
登校拒否をしていました。家では何度か話し合いの場を持ちましたが何も話してはくれません
でした。それで良いチャンスだと思い、「どうして学校へ行かないの?」 と、質問をしてみた。
すると、「行きたくとも行けないんだよなぁ。行こうと思うと、あっちこっち痛くなったり、気持ち
が悪くなったり、するんだよなぁ」と、独り言のように答えていました。
また、呟くように言った言葉もあります。それは、「やっぱり行きたいよなぁ。」 でした。
その言葉はとても切なく聞こえて、「じゃあ、私に何かできる?」 と、訪ねてみた。
すると、「いや、俺の問題だから、俺、頑張るよ。」と、言う。「良太をいじめる人の処へ乗り込
んでやろうか」 「ヤベェー、いいよ。母さん本当にやりかねないからなぁ。俺が解決するから
心配するなっ。」というと、良太の顔に笑顔が現れた。

しかし、良太の登校拒否とイジメの問題は解決の目処が立たないまま時は流れた。
子供にとっても親にとってもとても辛い問題だとしみじみ思う。

また、この時期は茨城の実家も大変でした。
養父が体調を崩して入退院を繰り返していたのです。そのため私と良太は続けざまに茨城へ
通た。病室で見る養父母達の姿は言葉にならないくらいにやつれ、私と良太は愕然とした。
父が入院中は母も病院に詰めていて、父のわがままを聞いて労っていました。
私は、そんな母の用事をこなすと再び横浜に戻る。そして次の日は会社へ行った。この作業は
私の身体にも結構堪えていました。

もうじき夏休みという時期になったとき、“ゆっくり休みた〜い” そんな思いもあって、実家に電
話を入れました。すると、「もう退院したよ。今は元気だよ。心配いらないよ。」と、養母の元気な
声に安心をして、「じゃあ、今年の夏は帰らなくてもいい?」 と、訪ねると、「いいよ、冬休みには
帰ってくるんだろう。待っているからね。」と、養母の明るい声にホッとした。
実は、ここ最近、色々な事が起きていて私自身の休養がほしかったのです。それで、養母の
言葉に甘えて、今年の夏は茨城に帰郷することを止めました。

養父の体調が気にはなっていましたが “もうじき冬休み” と、思いながら日々を送っている時
のことでした。養母から電話が入った。「おとうちゃん、死んじゃったよ。」と…。
養父は突然体調を崩したそうです。病名は肝臓癌、11月にこの世を去った。
養母は私を攻めながら泣き崩れていた…。

生きているときの養父の思い出は、普段は無口でとても優しい人です。そしてお酒が大好きで
毎日のように飲んでいました。病気を患い、お酒もたばこも控えてきました。
大好きだったお酒を横目で見ながら、我慢している父の顔が思い浮かぶ。
また、夫婦げんか? 夜になると母が家を飛び出してウロウロ…なんて光景も…。
喜怒哀楽、すべてをひっくるめて…思い出になった。
今、私の目の前にいる養母は、養父を恋しがって泣いています。見ているのが切なかった。

私は人の死が大嫌いです。もう誰にも死んで欲しくない、そして見たくない。
そんな思いを抱えて横浜に戻りました。

( no.20 ) ひとり旅
私が会社から戻ると、待っていたかのように、良太が玄関に飛んできた。
「学校が休みになったら1人で茨城へ行きたい。」という。
その言葉に驚いたが、養母も養父を亡くして寂しかもしれないと、勝手な思い込みで養母に電
話を入れるとOKを取り付けた。だが、私が車を運転するようになってからは移動はいつも車。
そのため、電車での移動に不安を抱いた。また、乗り継ぎは5回。果たして良太は1人で茨城
にたどり着くのか、とても不安でした。
出発当日の朝、良太を乗せて家を出ると駅で良太を降ろした。そして、私はそのまま会社へ向
かった。暫くすると良太から電話が入った。「どこへ行けばいいの。何番線なの?」と、でも私も
よく分からないため 「駅員さんに聞いて、気を付けていくんだよ。」と、いうと電話を切った。
その後、私は時間を気にしながら良太からの電話を待っていた、すると夕方に電話が入り無事
ついたとのことでした(ホッ)。
2人のことが気になり翌日、養母に電話を入れると、「良太と喧嘩ばかりだ。もう私いやだよ。
二度と1人でこっちへ寄越すな。早く帰ってこい。」と、凄い剣幕で養母に言われた。
数日後、会社が休みになると私はすぐに茨城へ飛んだ。
私を迎入れてくれたのは、“喧嘩し合っているの?”そんな雰囲気の中に到着した。養母は怒り
顔、良太はふて腐ったように、寝ころんでいました。
養母の話、良太の話を聞くとお互いの意見はごもっとも状態でした。
その中でも、一番の原因は“言葉”です。養母の言葉は、しっかり茨城弁? なまりがある上に、
ちょっとけんかを売られているような“ケンカ言葉”なのです。そのため、良太は養母の言葉を
理解できずに、怒られているように感じて口を閉ざしていました。
また、養母にしたら、しゃべらない良太に怒りがわいてきたようです。(メチャ悪循環)
マッ…私も初めて養母と話をしたとき怒られている。と、思ってよくベソをかいていました。(笑)

実家に帰る楽しみの一つに、学校時代の同級生に会えるという出来事もあります。
これが、また不思議なことに、私は誰にも連絡をしていないのですが、、なぜか私が帰ってきた
ことを知っているのです。(田舎の利点?) そのため、夜になると電話が鳴ります。
卒業して何十年たった現在でも楽しくおしゃべりが出来る仲間。(ほとんどが男性ですけどね)。
みんないい人達ばかりで気分転換には最高です。茨城の日程はこんな感じでした。

当然?のように、今日も電話のベルが鳴った。
いつもは、私1人で出かけるのですが、今回は良太も行きたいと言い出した。養母はおいて行
けと言ってくれましたが、この状態では…そんな思いから連れて行きました。
みんなは良太を歓迎?して話しかけてくれました。良太は得意げに、私との生活をおもしろおか
しく話しました。
すると、「お前たちはヘンナノ。親子じゃないみたいだよなぁ。友達にも見えて姉弟にも見えて、
口うるさい旦那にも見えるぜ。でも違うんだよなぁ。見ようによっては恋人にだって見えるよう
な気がするよ。いったいお前たちの関係はなんなんだ〜。ドウナッテンダ。」 でした。
“まっ、そんなもんよ。私、親のカンロクないもんね” と、ブツブツと私が唱える? 

良太の話を聞いていて、反省をした内容があります。
それは、会社での出来事や愚痴を子供に話してはいけない。良太いわく 「どうすることも出来
ないから、俺も辛いんだよ。」と、言っていました。以後、そういう話はしないようにした。\(__ )
また、養母との会話(愚痴?)は、良太が寝静まると始まります。いつも聞き役ですけどね。。
養母にとっての楽しみの1つだったのかも…。



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